トムフォードというデザイナー

デザイナートムフォードを語る上で、グッチというブランドを外すことはできません。まずはグッチの知られざる波瀾万丈のストーリーから、お話します。

実は今から30年前、グッチは 倒産寸前だったのをご存知でしょうか?隆盛を築いたグッチというブランドですが、創業者のグッチオ・グッチが死去の後、お家騒動により1980年代後半から、グッチは衰退の一途をたどっていたのです。


創業者のグッチオ・グッチの孫にあたる、マウリツィオ・グッチという人物がいました。彼には、パトリツィアという恋人がいましたが、このパトリツィアが、とんでもなく悪い女で、 グッチ家の財産を狙っていたんです



マウリツィオの父親は、パトリツィアの悪巧みを見抜いていたため、
2人の結婚を反対していました

しかしマウリツィオはパトリツィアの誘惑に負け、ついに結婚してしまいます


マウリツィオの父の死後、父の持っていたグッチの株式は、マウリツィオに相続されました
すると妻のパトリツィアは、グッチの経営を支配するようにそそのかします


そのそそのかしに乗った、マウリツィオは、グッチ家の親戚中に掛け合い、株式を集め、
恩人であった叔父さんのアルドを経営者の座から引きずりおろし、ついにグッチの代表権を得ました



当初の目的を達成した悪女パトリツィアは、グッチ家の女帝のように振舞いました
自分がデザインしたまったくセンスのないバッグを、強引に作らせて、大量の在庫を作ったりしました



その振る舞いを見た、マウリツィオ・グッチは、ようやく妻パトリツィアの目的が、自分への愛ではなく、
財産やグッチそのものだったことに気が付きました



後に二人は別居、マウリツィオは本当の愛を求めて、愛人と暮らしました

そしてグッチは、元々、経営能力が無かったマウリツィオが経営者のため、年々、売上を下げて行きます


やがてマウリツィオは、グッチの株式をアラブの資本家に売却、 グッチ家は完全に、経営から閉めだされました
1993年のことです



しかしマウリツィオには、まだまだ財産があります



別居されて、愛人を作られ、グッチも手に入らなかった、悪妻パトリツィアは、夫マウリツィオの暗殺を計画します
そしてある朝、マウリツィオはオフィスで死体で発見されました

1995年3月のことです


まんまとマウリツィオの財産を横取りしたパトリツィアですが、 暗殺者に払う報酬を渋ったため、事件が発覚
パトリツィアは逮捕され、懲役29年の判決を受けたということです



こんなゴタゴタがあって、ブランドの地位は完全に失墜しました

 

 

トムフォードの台頭

1990年、グッチのレディスウェアのデザイナーに就任したトムフォードは、
その後、その才能を開花させていきました

 

マウリツィオが退任した1年後の1994年、若干33歳でグッチのクリエイティブ・ディレクターに就任

そのころグッチのブランド価値は、地に落ちていましたが、トムフォードは、ファッションズ・フューチャー・ベスト・ニュー・デザイナー賞、
メンズウェア・アンド・ウィメンズウェア・デザイナー・オブ・ザ・イヤー、VOGUE最高国際デザイナーなど、数々の賞を受賞しました

 

デザインの才能だけではなく、トムフォードは独自の宣伝方法や、マーケティングによって、
グッチの売上を大きく伸ばし、再び、一大ブランドに返り咲きました



少ないながらも株式を所有していた、残されたグッチ一族の資産は、ほぼ破産状態から、
トムフォードのおかげで、43億ドルにまで、 復活したと言われています

 

その後、2001年には、グッチ傘下のイブサンローランのクリエイティブ・ディレクターにも就任し、
イブサンローランのブランド向上にも大きく貢献しました

ブランドに詳しい方なら、2000年代からのイブサンローランの復活を感じられていたかもしれません
その裏に、トムフォードの努力がありました

 

しかし、2004年、グッチはフランスの大手流通持株会社、PPRラグジュアリー・グループに買収され、
完全子会社になってしまいます

トムフォードは、PPRの方針に賛同できず、グッチのCEOドメニコ・デソーレと共に、グッチを辞任します

 

そして2005年、ドメニコ・デソーレと共に、自身のブランド、トムフォードを設立
高級ブランドが立ち並ぶマンハッタンの一角に、1000平方メートル(約303坪)という巨大な店舗を建てました

 

その後の成功は、語るまでもありません
今やファッション界で、最も大きなネームバリューを持つといわれるトムフォード

いずれ所属していた、グッチを超えるビッグネームに成長すると言われています

 

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